オーバードーズして搬送された方のお話し

救急車人生が辛い時
スポンサーリンク

昔、私はネット上にある「うつ病患者会」なるものに入っていて、そこで実際にオーバードーズで2回救急搬送されたという方、Aさんと出会い、話をしました。

その方は、年の頃は私より少し上の50代の女性の方でした。数年前にご主人を亡くしてから「うつ病」と診断されて、何度も「死にたい衝動」が彼女を襲ってきたそうです。そして、耐え切れずにオーバードーズをしてしまったそうです。

今日は、そんなオーバードーズの経験者のAさんのお話しと、私の悩みについて話しいたいと思います。

 

1.私の悩み

 

救急外来

 

まずは、私の悩みから話したいと思います。私は看護師で、若い頃は大きな総合病院の内科外来に所属していて、野戦病院のようにひっきりなしに救急患者さんを受け入れていました。

勿論、骨折といった明らかな整形外科の救急とかは別にして、科が分からない場合は、先ずは内科で救急患者を受け、内科の疾患でないか見極めて、そして他科にふるという流れになっていました。なので、内科外来が救急の窓口のような役割を果たしていた為、多忙を極めました。

ある日、20代の綺麗な女性がオーバードーズで昏睡状態で運ばれて来ました。付き添いのイケンの彼氏らしき人が、彼女の名前を絶叫して泣いています。私たちは、医師と一緒に胃洗浄を開始しました。そこに外来師長がやって来て、彼女の手をさすりながら「こんなに綺麗で若いのに死ななくてもいいのに。死にたい程、どんな辛いことがあったんかな」と彼女の手をさすりました。私は心の中で、「綺麗でも、若くても、死にたい時は死にたいわい」と思っていました。

元々、私は幼少期からの虐待のせいで「死にたい」気持ちがあり、「死」とは隣り合わせの生活だったように思います。だから私はその時、こんなことを思いました。自分が出来なかったことを、彼女が意を決して行ったのに、胃洗浄を行い、点滴をし助けることで、彼女が意識が戻ったら、きっと絶望するだろうなと。しかし、一通りの救急での処置を終えると、彼女は病棟に運ばれて行きました。なので、私は意識を取り戻した彼女は知りません。

しかし、モヤモヤを私が抱えているのに気が付いた先輩看護師がいました。その先輩はこう言ってくれました。「私達看護師は、自殺で運ばれてきた患者さんを助けなきゃいけない。でも、もし助かってしまって、後々絶望したり、落胆する人がいるだろう。でも、100人患者さんを助けて、1人でも『あーあの時助けてくれて良かった』と思う人があるならば、助けることに意味があると思うよ」と。

しかし、それを先輩から言われても、まだスッキリしない自分がいました。この世は不条理にできていて「生きたいと願うのに死なないといけない命」、一方、「死にたいと願うのに生かされている命」がある。死にたいと思う人を死なせてあげて欲しいと思う私は間違ってるのだろうかとずっと思い悩んでいました。

そして、実際に助かった人、即ちAさんに会った私は聞いてみたのです。「今、あなたは助かって良かったと思う?」と。勿論、初対面の時ではなく、仲良くなってからですが。

 

2.実際にオーバードーズを経験した方の話し

 

おばあちゃんと息子家族

 

オーバードーズを経験したAさんは、当時はご主人のあとを追って死のうと思っていたらしいです。意識が戻った時は落胆というか絶望したと仰っておられました。そして、助けた人にも腹が立ったと仰っておられました。

でも、今は本当にあの時は助けてもらえて良かったと思っていると仰っていました。

何故かとたずねると、その後、息子さんにお子さんが出来たからだそうです。お孫さんが出来て、おばあちゃんになって、これまでと違って息子さん夫婦とも関係は良くなったそうです。

ご主人が亡くなられた当時は、息子さん夫婦が遠方にいるし疎遠だし、一人きりで寂しくてたまらなかったと。現在も、息子さん達は遠くに住んでいらっしゃるのですが、お孫さんの写真を度々送ってくれて、たまに遊びに来てくれるのが何より嬉しいと仰っていました。そして、うつ病も回復傾向でパートに週に2日行っているそうです。

確かに、その時亡くなっていたら、お孫さんには会えなかったですものね。仏教で、「森羅万象、全てのものは、ずっと同じままではありません」というのを『諸行無常』と言います。その時、「死にたくて」「苦しくて」「永遠に続く苦しみ」のように感じても、同じままではないのです。

Aさんも、時が経ち、お孫さんが出来るという変化があり、そして今は「死にたい」気持ちから乗り越えています。きっと、これを読んでいる貴方も「今、苦しくて」「今、辛くて」「今、耐えられない気持ち」でいるかもしれません。でも、その苦しみは永遠ではありません。

そして、私もまたAさんから学びました。「死にたい」と願っている人を「死なせてあげたらいいのに」と思うことは傲慢であったと。人は「辛い」「苦しい」ことを乗り越えてこそ「成長」する生き物です。「死にたいならば死ねばいい」というのでは、その人の成長をそこで止めたらいいと言っているのと同じになるからです。人は誰しも、成長できる可能性を持って今生きているのですから。

 

3.おわりに

 

実際にオーバードーズの経験者が、どんな割合で「助かって良かった」と思っているかはわかりません。でも、私はAさんに出会えて感謝しています。ずっと、オーバードーズや首つり等で運ばれてくる方がいて、その都度私の中にある「死にたい」気持ちも疼いていたからです。「死にたい」人を助けていることに罪悪感を感じていたのだと思います。

でも、Aさんと出会って、「今は助かって良かった」との言葉が聞けたことで、これまで抱いていた私の罪悪感がなくなりました。一旦は「死」を選んだ人達が、「今は生きていて良かった」と思えて貰えることに幸せを感じると共に、今「死」を選択しようとしている方にこのブログを読んで、ちょっとでも考える機会にしてもらえたらと思います。

今日はこの辺でおわります。このブログがあなたのお役に立てれば幸いです。

 

ポッチと押して貰えると嬉しいです

にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました