普通という言葉に縛られない

色んな色の眼鏡人生が辛い時
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twitterの中にいると、「普通に働きたかった」「普通に社会人になりたかった」「普通に生きたかった」「普通に結婚生活を送りたかった」「普通に学生生活をおくりたかった」「普通の親のもとに産まれたかった。私は親ガチャに外れた」という文言をよく目にします。

今日は、「普通」って何かについて考えてみたいと思います。

1.そもそも「普通」って何?

 

広辞苑によると「普通」は

①ひろく一般に通ずること。

②どこにでも見受けるようなものであること。なみ。一般。

と書いてあります。

とかく、他人と比べて「平均的な」「一般的な」人生をおくれていたら合格という意味なのでしょうか。こういう思考になるのも無理はなく、日本の教育は型にはめた教育をしてきました。平均点をとれないと劣っているとレッテルをはり、平均以上だと優秀なわけです。とりわけ、一番多い平均点あたりなら安心ということです。そして、劣っている者には厳しい世の中です。

では、人生の普通ってなんでしょうか。お父さんとお母さんが仲良しで、きょうだいも仲良しで、おじいちゃんとおばあちゃんとも仲良し、おばあちゃんとお母さんも仲良し、お父さんもある程度の収入があり、子供にも優しい。家族旅行は一年に二回はする。と想像すると、この世にこんな家庭がどれくらいあるのでしょうか。

片親でも、しっかりと育ってらしゃる方もおられるし、両親がそろっていても子供がぐれている家庭もあります。また、古来より姑と母は仲が悪いのが永遠のテーマとも言われていますので、先述の家族はまれなケースなのではないでしょうか。

すると、「普通」の家庭と我々が思っているのは、我々が思い描いている「理想」の家庭の投影であるように思えます。

 

2.自分の理想を投影している「普通」

 

かくいう私も「理想」の母親像がありました。アメリカの映画のシーンで出てくる、寝る前に子供に本を読んであげる母親。そして、子供が泣いていたら優しく寄り添って何故泣いているのか聞いてくれる母親。そんな母親が欲しかったです。

でも、それはあくまで私が小さい頃に映画を観て憧れた「母親像」なのであって、「普通」ではないのです。私の母は幼い頃に母を亡くして苦労しているので、子供のために働き、子供に金銭面で苦労させないことが私の母にとっては一番大切なことだったかもしれません。実際に夜遅くまで働いていて、夜に一緒に寝ることはありませんでした。

そう考えると「夫ならば、普通はこうするべき」「妻ならば、普通はこうするべき」というのも、勝手に自分が作った一種の執着ではないでしょうか?

 

3.ありのままを受け入れることの難しさ

 

色んなサングラス

 

人間はありのままの「相手」、「自分」を見ることが難しいようにできています。これを、仏教では「邪見」と言います。反対に正しい眼で見ることを「正見」といいます。

それは生まれてから、これまでの生活してきた環境、習慣、教育、思想などによって、偏見や固定観念が植えつけられ、結果それぞれ色眼鏡をかけて「相手」や「自分」を見てしまっているのです。なので、誰でもそれぞれ違った色眼鏡をかけて世界をみているわけです。

ここでご紹介したい仏教の逸話があります。キサーゴータミーの逸話です。

キサーゴータミーは、自分にとって唯一の肉親である幼子を亡くし、悲しみに打ちひしがれていました。

どうして私だけこんな目に合わなければならないのか!?

嘆き悲しむ彼女は、現実を受け止められませんでした。

そして彼女は、「どうかこの子を生き返らせる薬を下さい」と、幼子の躯を抱きながら村中を彷徨います。

彼女の境遇を知る者にとっては、彼女の行動は理解できなくはありません。しかし、幼子の躯を抱きながら「生き返る薬をください」と、突然訪ねてきても、生き返らせる薬なんて土台無理な話です。

そんな中、ある家を訪ねると「私はあなたの望む薬は持っていないけど、きっとお釈迦さんならあなたに薬を与えてくれる」と言いました。

そうして彼女はお釈迦さんと出会いました。彼女はお釈迦さんに「この子を生き返らせる薬をください」と訴えました。

お釈迦さんは「わかりました。その薬を作るには芥子の実が必要です」と言いました。

更に付け加えてお釈迦さんは言いました。「ただし、その芥子の実は、今まで死者が出たことのない家からもらってくる必要があります」と伝えたのです。

そこで彼女は、ほうぼうの家を訪ねました。「芥子の実を分けてくれませんか?」と。

芥子の実ぐらいであれば、香辛料としても使われるため、どこの家にもある代物です。 「いいですよ」と言ってくれる家はたくさんありました。

しかし、彼女は問います。「今までこの家から死者はでてないですか?」と。

すると家の人は応えます。「実はこの間おばあちゃんが……」と。

そこで次のお宅へ向かい、また同じように尋ねました。「今までこの家から死者はでてないですか?」

「実は何年か前に祖父が……」

「実は何年か前に夫か……」

「この子が生まれてすぐに妻が……」

「何番目の子供が事故で……」

「数十年前には父方の母が……」

「そういえば父方の母の姉が私の生まれる前に……」

そんなこと言えば、両親、祖父母、そのまた前……、死者の出ていない家なんてあるはずありません。 彼女は、各家を訪ね歩くうちに気がつきました。

「死は誰にでもやってくる。自分だけが特別不幸に見舞われたわけじゃない。誰もがそのような苦しみを背負っていたんだ……」

そして、彼女は抱いていた子供の躯を弔い、自分自身の人生を再び歩み始めました。当たり前のことに気づかせてくれた、お釈迦さんの弟子として。

引用:経典『テーリーガータ―』

 

このように、とかく人間は自分だけが不幸だと思いがちです。でも、よく見れば(正見)、同じような経験をしている人が少なからずいるのかもしれません。果たして、あなたが思っている「普通」とは、正見でしょうか。

 

4.「普通」じゃないからこそ貴方の使命がそこにある

 

今、病気で普通に働けない方(私もそうです)、夫が浮気して別の女に走り、結果家庭が崩壊し普通の家庭が築けなかった方、いじめで不登校になり普通に学生生活をおくれない方、きっとこのブログを読んでくださっている中にいらっしゃると思います。

私は、普通じゃないからこそ貴方の使命というか天命があるのではないかと思います

2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学iPS細胞研究所山中伸弥先生は、国立大阪病院整形外科での研修医時代は他の医師と比して技術面で不器用であり、周囲から「レジスタント(アシスタントをもじって邪魔者の意味)」や「ジャマナカ」と揶揄され「向いていない」と痛感したそうです。しかし、その後、重症になったリウマチの女性患者を担当し、患者の全身の関節が変形した姿を見てショックを受け、重症患者を救う手立てを研究するために研究者を志すようになったとされています。

一見、順風満帆の山中伸弥先生でも、一般の医師と比べると不器用で普通ではなかったのです。普通ではなかったからこそ、新たに研究の道に進め、ノーベル賞も受賞される結果となりました。もし、山中先生の手が器用であったらば、そうとまでいかなくても手先が普通だったらば、iPS細胞はどうなっていたんでしょうね。きっと生まれていなかったのではないでしょうか。

「普通」という思考に執着することは、自分を苦しめることになると思います。どうか、「普通」だったら私は不幸じゃなかったのにと思うのをやめてみませんか。普通じゃなくても、あなたは素晴らしい存在なんです。

 

5.おわりに

 

「普通なら」という思考のおかげで、人は苦しんでいるように思います。「普通のお父さんなら、こうするべきでしょ」等。「普通」という言葉を思い浮かべると、続いて出てくるのは「~すべき」という言葉になります。「妻ならば、普通はこうするべき」「嫁ならば、普通はこうするべき」等、この思考のせいで、互いに「苦しみ」を生み出しています。嫁姑問題はこういうものですよね。

また、「普通」じゃないと愛してもらえないと思うことは幻想です。「普通」にこだわるかぎり、決して貴方はありのままの自分を受け入れられません。「普通」だったら良かったと思うのであれば、「普通」でないとダメだと思っているのは周囲ではなく、あなたです。まずはその事に気が付いてください。

普通じゃない病気の私もあっても良いではないですか。病気になったからこそ学べることもあるはずなのです。「普通」という言葉に縛られるのはやめてみませんか

 

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